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ランキング論評

1位の黒澤明は、その投票では20位だった
——10i.jp「世界の映画監督ランキング」に異議を三つ

 2026年8月  姉妹サイトの順位表への論評  根拠つき辛口批評家  約12分

先に立場を書いておく。この記事で取り上げる 10i.jp は、当サイトと同じ編集体制が運営しているランキング専門サイトだ。身内の記事を、身内が論評する。だから隠さずに言うと——私はこの順位表を、かなり高く買っている。そのうえで、三箇所で手が止まった。

10i.jp が2026年8月5日に公開した「世界の映画監督ランキング」は、世界の映画監督43組を6つの物差しで採点したものだ。総合1位は黒澤明(8.61)。2位のジャン=リュック・ゴダール(8.60)との差は0.01しかない。

論評の前に、まず数字を疑うのが筋だと思ったので、材料になった投票を自分で取りに行った。英国映画協会(BFI)が2022年に発表した二つの投票——批評家1,639人のものと、監督480人のもの——のページを取得して、自分で書いたパーサで数え直した。結果は、掲載264件、100位以内がちょうど100件、規則に合う監督が44人(共同名義を1組と数えて43組)、その43組が264本のうち133本と、100位以内100本のうち74本を占める。全部、記事に書いてある通りだった。

薄暗い編集室の木の机に映画フィルムの帯が三本並べて置かれ、その上に長さの違う木の物差しが横たわっているイラスト。奥に卓上ランプとフィルムリールがある

つまり、私が異議を唱えるのは計算ではない。物差しのほうだ。

※ 本記事に広告・アフィリエイトリンクは含まれません。引用元の 10i.jp は当サイトと同じ編集体制が運営するランキング専門サイトであり、身内の記事を扱うため、この関係を先に開示しています。また本記事は対抗ランキングではありません。当サイトは独自の順位を出しません。

まず認める——「誰が決めたのか」が書いてあるランキングは、ほとんど無い

映画のランキング記事を読んでいて一番しらけるのは、名簿の出どころが書かれていない瞬間だ。「世界の名監督ベスト」——誰が、何を基準に、どの範囲から選んだのか。そこが空欄のまま順位だけが並ぶ。順位を疑う以前に、疑うための材料がない。

この記事は、そこを埋めている。母集団は BFI の批評家投票の掲載264本で、そこから、2本以上入っていて最高順位が100位以内、という規則だけで機械的に抜いた44人。監督ごとの事実は英語版・日本語版ウィキペディアの本文から抜き出し、事実1件につき40字以上の逐語引用を義務づけて、その引用が元の本文の部分文字列かどうかを機械で検査したという(687件・不一致0)。

もっと感心したのは、自分の弱いところを先に言っていることだ。「事実の量がそのまま点になる構造的な偏りがあります」と限界の節に書き、同じ月に黒澤明単独のランキングを書いた利益相反まで開示したうえで、「読者が疑うべき数字として、黒澤の『現実の記録』を6点に置いた判断を挙げておきます」と、疑うべき箇所を名指ししている。1位と2位の差が0.01なのだから、その1件の判断だけで首位は入れ替わる。そこまで書くランキングを、私はあまり見たことがない。

だから以下は難癖ではなく、開示された物差しへの反論として読んでほしい。

異議① 総合1位の黒澤明は、母集団を決めた投票では20位だった

最初に手が止まったのはここだ。

この記事の母集団を決めた批評家1,639人の投票で、黒澤明の最高順位は20位である(『七人の侍』。以下、投票の順位は私が同じページを解析して確認した数字だ)。掲載は4本。監督480人の投票でも最高14位。その人が、6軸の合計では1位になる。

記事自身がこう書いている。「総合1位ですが、4つのレンズのどれでも1位になりません」。形式4位、時間6位、記録21位、製作11位。黒澤が単独で頂点に立つのは、レンズを張っていない6つ目の軸——「国境の越え方」だけだ。そしてこの軸の重みは20%で、6軸のうち最も重い。理由も開示されている。「他人が実際に使ったかどうかが仕事の強さの証拠になる」という編集判断だという。

言いたいことは分かる。分かるのだが、これは作品の記録ではなく、作品を使った人たちの記録だ。

黒澤の場合、その記録はたしかに派手である。セルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』(1964)は『用心棒』の非公式なリメイクで、東宝が黒澤・菊島隆三とともに著作権侵害で訴えた。1965年11月に和解が成立し、著作権を持つ黒澤と菊島が受け取ったのは、日本・台湾・韓国での配給権と、世界配給収入の15%である。おまけに、この訴訟を恐れた配給会社が及び腰になったせいで、『荒野の用心棒』の米国公開は1967年1月18日まで遅れたとされる。1977年には『隠し砦の三悪人』の影響をジョージ・ルーカスが認め、太平と又七が C-3PO と R2-D2 に、雪姫がレイア姫の下敷きになった。

この件で私が好きなのは、そこから先の話だ。黒澤がレオーネに送った手紙には「とてもいい映画だ。だが、それは私の映画だ」という趣旨の一文があったと伝わっている。一方のレオーネは、黒澤から手紙をもらったこと自体に感激して、周りの人に見せて回っていたと記録されている。訴えられた側が舞い上がっている。映画史の記録は、たいていこういう間の抜けた形で残る。

ただし——ここからが異議だ——これは黒澤が撮ったものの話ではない。黒澤の映画で、他人が何をしたかの話だ。訴訟も、続編の系譜も、記録に残りやすい国と言語で起きたときにだけ記録に残る。「使われたか」は検証できるという点で優秀な指標だが、優秀さの向きが作品から一歩ずれている。その一歩ずれた軸に、6軸中もっとも重い20%が乗っている。カードの点数を見ると、黒澤の「国境の越え方」は10点、ゴダールは9点だ。重みが20%なのだから、この1点の差は総合で0.20点にあたる。1位と2位の差、0.01の20倍である。首位を決めたのは、この1点だ。

異議② 小津安二郎が19位。しかも沈めているのは、たった一つの軸だ

これが一番、腹に据えかねた。

『東京物語』は、批評家投票で4位、監督投票でも同率4位。二つの名簿がここまで食い違う中で、両方が4位に置いた数少ない一本だ。しかも2012年の監督投票では1位だった。世界中の監督が、いちど「史上最高の映画」に選んだ作品である。

その小津が、この順位表では19位に置かれている。

そこで6軸の内訳を見た。カードには各軸の点数が棒グラフで出ている。形式9、時間8、俳優10、製作6、国境9——そして現実の記録が4。俳優の使い方は満点だ。19位まで沈めているのは、ほぼこの1軸だと言っていい。

「現実の記録」の定義はこうだ。「その国・その時代の現実が、作り物ではなく実物として画面に残ったか」。

小津は、そこを狙っていない。狙っていないどころか、逆をやった人だ。『長屋紳士録』の撮影で、笠智衆が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放った、と伝わっている。小津作品25本に出た笠は、小津組に慣れない俳優が「先生、ここはどういう気持ちでしょうか」と尋ねると「気持ちなし」と返ってきた、とも語っている。

畳に座った人の目の高さにカメラを据え、俳優の首の角度まで構図のために決める。それは現実を記録する仕事の、ちょうど対極にある。だから「現実の記録」が4点になるのは、採点として間違っていない。間違っていないのに、その4点が19位を作っている。ここにこの物差しの性格が出ている。

証拠になる数字がひとつある。同じ軸で、宮崎駿は8点だ。黒澤明は6点。実写の巨匠二人より、アニメーションの監督のほうが「現実の記録」で高い。記録レンズに切り替えると、宮崎は32位から12位へ20ランク上がり、黒澤は1位から21位まで沈む。屋久島とウェールズを歩いて写生したことが効いているのだという。

私はこの数字を、記事の欠陥だとは思わない。むしろ、この軸が実際に何を測っているのかを正直に見せてくれた数字だと思う。測っているのは「現実が写っているか」ではなく、「現実を取りに行った記録が残っているか」だ。取材に出た人が上がり、部屋に籠もった人が下がる。小津は籠もった側にいる。

越境の話をもう一つ足しておく。ヴィム・ヴェンダースは小津を主題にしたドキュメンタリー『東京画』を1985年に撮っている。『ベルリン・天使の詩』の終わりには、かつて天使だったすべての人へ、とりわけ安二郎、フランソワ、アンドレイへ捧げる、という趣旨の献辞が流れる。小津安二郎、フランソワ・トリュフォー、アンドレイ・タルコフスキー。他国の作り手に使われたかどうかで測るなら、この人も十分に記録を残している。

その小津を、監督たちは2012年に世界一に選んだ。順位表と投票のどちらが正しいという話ではない。両方とも正しくて、測っているものが違うだけだ。ただ、私はこの19位を、19位として読む気になれない。

異議③ ハワード・ホークスは、順位ひとつ分で消えた

三つ目は、名簿に載らなかった人の話だ。

母集団の規則は「掲載2本以上」かつ「最高順位が100位以内」。この2番目の条件で落ちた監督が16人いる。記事はその16人の名前を全部挙げている。誠実だと思う。

ただ、数え直していて手が止まったのは、その筆頭の数字だった。ハワード・ホークスは、批評家投票に4本を入れている。『リオ・ブラボー』101位、『赤ちゃん教育』108位、『コンドル』122位、『ヒズ・ガール・フライデー』129位。落ちた理由は、その最高順位が線のひとつ外だったこと。それだけだ。

一方、43組の中には、掲載がちょうど2本の監督が——偶然だが、こちらも16組——いる。つまり掲載4本のホークスが、掲載2本の監督16組より先に落ちている。「2本以上」という条件を、いちばん余裕を持って満たしていた人が、である。

さらに言えば、批評家投票の上位10本のうち2本は、その監督が43組に入っていない。9位のジガ・ヴェルトフ(『これがロシヤだ』、原題 Man with a Movie Camera)と、10位『雨に唄えば』のジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンだ。理由は同じで、掲載が1本ずつしかないから。批評家1,639人が10位に置いた映画の監督が、その投票から作った名簿にいない。

ここで、映画好きとしては言い添えたいことがある。『リオ・ブラボー』は、ただの西部劇ではない。あれは『真昼の決闘』への反論として作られた一本だ。ホークスは「まともな保安官が、首を切られた鶏みたいに町中を走り回って助けを求め、最後はクエーカー教徒の妻に救われるなんて思わなかった」という趣旨のことを公言している。西部劇の主人公はどう振る舞うべきかという論争が、そのまま一本の映画になった。その一本が、101位という数字ひとつで母集団から外れる。

記事はこれを分かっていて、「この線引きが本稿の最大の恣意である」と自分で書いている。だから私の異議は、隠していることに対する異議ではない。「編集による人選をしていない」という言い方への異議だ。人選はしている。監督を選んでいないだけで、規則を選んでいる。そして規則を選ぶことは、監督を選ぶのと同じくらい強い編集行為だ。100位で線を引くか110位で引くかで、名簿は変わる。

それでも、この43組は「観る順番」としてよくできている

ここまで三つ噛みついておいて言うのも何だが、私はこの順位表を使うつもりでいる。

理由は単純で、物差しを切り替えられるからだ。ページ上部のボタンで重みを変えると、同じ採点のまま順位が組み替わる。形式に振ればゴダール、時間に振ればクリス・マルケル、記録に振ればアッバス・キアロスタミ、製作に振ればチャップリンが1位に来る。5つの物差しに、5人の王様がいる。

この作りの何がいいかというと、「1位は誰か」を見に行かなくなることだ。記事自身が「上位5組が0.15の幅に収まっています」と書き、その並びを「1位が決まった」とは読まない、と明言している。0.01差の1位を信じるのではなく、自分が今どの軸で映画を観たいのかを先に決めて、その軸の上位から観ていく。名簿としては、それでちょうどいい。

ここから先は実務の話をする。43組の代表作を追いかけるとき、実際に問題になるのは順位ではなくどこで観られるかだ。旧作、とくに1920〜60年代の作品は、配信サービスの出入りがはげしい。先月まで見放題だったものが今月は個別課金になっていることも、権利が切れて一覧から消えていることもある。だから作品名で検索したときは、その情報がいつ時点のものかを必ず見て、最後は各サービスの公式ページで確かめてほしい。この記事に配信状況を書かないのは、書いた瞬間に古くなるからだ。

それから、名画座と特集上映を候補から外さないでほしい。この43組の代表作は、旧作を回す劇場の番組にしばしば載る。ホークスの特集が組まれることもある——101位で母集団から落ちた人が、スクリーンでは主役として戻ってくる。順位表に載らなかった監督が、その週いちばんいい席に座っている。そういうことは、わりと起きる。

順位は、観る順番を決めるための道具でしかない。道具として使うぶんには、この43組はよくできている。私が異議を三つも書いたのは、この表を捨てるためではなく、数字のうしろにある物差しを見てから使ってほしかったからだ。

明かりがついたあとで順位のことを思い出す映画は、たぶん一本もない。

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